(2)①高校生活に暗雲の兆しあり

3808 Words
新学期の前日が入寮日である。 最寄りの駅から一直線にタクシー乗り場に向う。日々希が告げた目的地に運転手は意外そうな顔をする。 繁華街を抜けビルの谷間を走っていく。無機質な灰白色の景色が流れていく。 ずっと外を見てばかりだった。こんな乾いたところで生活するのかと早くも日々希は自分の決断をなかったことにしたくなっていたが、高校生活を一日も送らないうちに逃げ帰ることはできなかった。 タクシーは滑るように走る。 人の気息が混ざり合う列車内と違って安全に守られた繭のような車内だった。 既に何時間も流れる景色を追いすぎて目が乾いてしまっている。まぶたが重い。 「……お客さん、もうそろそろですよ」 声を掛けられて、少しの間眠っていたことに気が付いた。 車窓から見える景色は様相を変えていた。赤と漆喰のレンガ壁は延々と続いていた。 壁の向こう側には深い森があるようで、塀をはるかに高く超えて樫や椎といった常緑樹の見事な枝が道路に陰影を落としていた。 日々希にはこの感じになじみがあった。塀が、人と森との世界の境界線であった。互いが互いの領分を侵しあわないように大地に線を引く。 まさか都会に来てまで人より長く生き続けている古き森と出会うとは思わなかった。 朱色の境界線は途中で途切れている。塀よりも高く鉄柵の門が固く閉じて、日々希を乗せたタクシーの行く手を阻んだ。 コンクリート造りの箱形の警備員室がある。窓を開けずにスピーカー越しの不愛想な声でここを通る者を誰何する。威嚇用のカメラが幾つもこちらを向いていた。 まさかこの塀の内側が、と日々希はおののいた。 タクシーの運転手は車を警備員室によせ窓を開けて自分の身分証をかざしている。日々希の身分証も求められたため、特待生合格通知を鞄から出して運転手に渡した。 鉄柵がきしみながら横へ滑り、通る道が開く。通り抜ける時に「大和薫英学院」と御影石に刻印されたものをみて、信じられないがこの森がこれから通うことになる学院の敷地なのだと確信せざるを得ない。 「わたしが塀を越えて中に入るのは初めてですよ。ここの学生さんはお抱えの運転手がいらっしゃる方ばかりなので。城塞のような構えの内側に一度入ってみたかったのですよ」 運転手の興奮がその声色に漏れている。 「お抱えの運転手を持つということはみんなお金持ちということなのかな」 「ええそりゃあもう。すごい家柄の方ばかりという噂ですよ。ここの卒業生といったら……」 誰もが知る政治家の名前を運転手はあげていく。運転手のおじさんの興奮度合いが上がっていくにつれて、反比例して日々希は冷静になっていくような気がする。 鉄柵に守られた校門からの道は一本道である。 両脇には樹齢半世紀を超えそうな桜の古木が互いに枝をからませながら延々と続いている。どの枝のつぼみも今か今かと開く時をまっていた。中には咲き始めて小手毬のようにこんもりと花を開いている桜もある。これを三分咲きとでもいうのか。奥に進むほど桜の開花は増していく。 正面の校舎は明治に建てられた重要文化財の指定がされていそうな、赤銅色のレンガ造りの洋館である。重々しく荘厳な姿で出迎えた。 エントランスをくるりとまわって右の通路へタクシーは徐行していく。 男子寮は正面の校舎から二つほど建物を超えて、その奥にあった。 たどり着いた先の建物は、白い塗り壁、屋根には碧の陶器タイルが美しく、フランスの片田舎にありそうなリゾートスタイルのホテルのような外観をしていた。 想像していた寮は二階建ての木造アパートのようなものだった。 目の前のそれは、日々希の過ごした木造の校舎や敷地の規模とかけ離れている。 まだ学生を一人も見かけていない。 鉄柵を通り抜けた時も、音声だけの会話で警備員の姿をこの目で見たわけではない。 特待生の合格通知書を手にした時から自分は欺されているのではないか、門をくぐって入ってきたところはナルニア国のような別の世界なのではないか、自分はもしかしてとんでもない勘違いをしていたのではないかと不安な気持ちが抑えられない。 タクシーから降り立った足裏の土がうねうねと揺らいでいるような感覚にとらわれた。 都会とは喧噪にもまれながら時間が飛ぶように流れていくところと思っていたのに、竜崎村よりはるかに静寂に包まれていた。 タクシーの精算にスマホの決済ができないので戸惑った。運転手のおじさんもいつもはQR決済できるのですけどねえ、と不思議がっている。 都会はもう現金なんて使わないのよ、なんて言っていたのは同級生の誰だったか。 ここは過去が現在を浸食しているようだった。 タクシーは来た道を去って行く。 鞄一つで日々希は白亜の男子寮の前に一人取り残されることになった。 だが、いつまでも突っ立っていることはできない。未来へ己の足で踏み出すことを決意したのだ。初めの一歩はもう踏み出している。ゴクリとつばを飲み込んだ。あの気のいい運転手は白亜と碧でてきた寮の玄関前の階段のところへ下ろしてくれていた。 階段を上がりきり扉を押し開けると、内側は学校の教室をふたつ分ほどのあわせた大きさの広間になっていた。受付の窓があり管理人が常駐しているようである。 広間には背のない海老茶の革張りのソファーがガラスの机を挟んでくの字、くの字と置かれている。同じものが二セット並んでいた。天井からはアールデコ調ではないかと思われるソーダガラス製の、白くけぶるような碧色のランプが銀の吊り鎖の先につり下がっている。男子寮にしては優美な感じで、こんなことでもなければリゾートホテルだと言われればそのまま信じたと思う。  海老茶のソファに二人が座っていた。一人は黒いセーターを来た大人びた雰囲気の学生で、長い足を組んで文庫本を手にしている。 もう一人は小柄な少年だった。大人と子供のようでもある。少年は大きなボストンバックをソファに置いている。 これからどうしたらいいのかと受付の窓の奥を覗いた。 呼び鈴を押す前に黒セーターの学生は本を閉じていて、靴の音を響かせながら歩み寄ってくる。 「君が新入生の藤くん?はじめまして。わたしは三年で寮長の東郷進一郎です」 日々希の前に立てば頭一つ分ほど背が高い。自信がある者独特の腹の底にひびく声だった。 高校三年とはこんなに大人名雰囲気を持つのかと気圧される。服装にも隙がない。グレーのスラックスには彼の性格の清廉さを示すかのようにまっすぐアイロンの筋が走っている。 俺は秀才だと言わんばかりの銀縁の眼鏡の奥の目は、日々希を安心させるように優しく笑っている。 彼から突き出されている手の意味がわかるのに間抜けな間があいてしまった。 握手を求められていたのだった。 慣れないままに握ったら、自分の手が緊張で汗ばんでいて恥ずかしくなった。 「は、初めまして。藤日々希です」 自分のまごまご具合に頬が熱くなっていく。 「他の人たちは……?」 広間を見回しても、東郷進一郎の隣にすわっていた小柄な少年しか見当たらない。 「高校からの新入生なら今年は七人だ。あとの五人は数日前にばらばらに来て入寮を済ませたよ。本来は今日が入寮日なんだけどね。彼は、これから君と同室になる西野くんだ」 西野くんと呼ばれた少年は目が合うとにっと笑い頭をぴょんと下げた。 小猿を思わせる愛嬌のある動作である。同じ立場の仲間がいるというだけでほっとする。 東郷寮長は二人を連れて寮内を案内する。その後二階の彼らの部屋へ行く。 「近代的に内部を改装し終えた校舎と違って寮にはエレベーターがないんだ。多少不便だけれど我慢してほしい。今は最低限のことを言っておく。部屋の門限は十一時。酒の持ち込みは禁止。九時以降の馬鹿騒ぎは禁止。校内での喧嘩やいじめは厳禁。何度か規則を破れば罰が与えられるから気をつけて。ほとんどの学生が中等部からの繰り上がりで人間関係ができあがっているところがあるけれど、悪目立ちしなければ大抵の場合大丈夫だと思うよ」 西野くんは、はいッ、はいッ、と元気に返事をしている。 案内された彼らの部屋は、正面に窓がある八畳ほど広さの洋室だった。両脇にベッドがあり、備え付けのクローゼット、勉強用の机、その机の上には教科書一式が置いてあった。左右対称に同じ家具が配置された相部屋である。 西野くんに続いて日々希は部屋に入った。まさか相部屋になるとは思っていなかったけれど、窓から見えるすぐそこの森の木々の揺らぎや、誰の匂いもついていないまっさらな部屋が気に入った。 部屋に入るなり西野くんは左に。 日々希は右に。 おのおののテリトリーが自然と決まる。 背後から声がかかった。 「じゃ、詳しいことは机の資料を隅々まで読んでおいて。食堂のことや共同風呂、入学式のことなど書いているから」 東郷寮長は二人が振り返るのを待っていた。 「くれぐれも喧嘩は厳禁。怪我をさせるのも怪我をするのもなしね?」  銀縁眼鏡の奥の目が念を押し、そして緩んだ。 「それから、最後になったけど、我が大和薫英にようこそ。君たちを歓迎する!」 その言葉には歴史ある大和薫英学院を背負うのは自分たちだという自負が感じられた。自然と背筋が伸び上がるような気持ちになる。 東郷寮長が行くと部屋に二人が残された。 やっとたどり着いたのだと思うとほっとすると同時にあらがいがたい疲労が日々希にのしかかる。 ルームメートに構わず日々希は鞄を床に置くと靴を蹴り飛ばした。 ベッドに身体を投げ出したのだった。
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