異世界?

2799 Words
学校を飛び出すと、駅とは反対方向へ走った。 ──走って、走って、走った。 10月の山道はまだ緑色の葉が多く、人も少ない。なだらかながらこの坂道はずっと続き、いったいいつまで、どこまで、走ればいいのかわからないというのに、走らなければ何かに呑み込まれそうになって、ただひたすらに走っていた。 走ってないと、泣きそうで 走ってないと、考えてしまって 走ってないと、気づいてしまって だから、|美好《みよし》は山道を上へ、上へと走っていた。目的なんかない。家に帰りたくなかったのだ。誰にも会いたくなかったのだ。会えばどうなるかわからなかったから。 ついに息が切れて、足を止める他はなく、膝に手を当ててはぁはぁと息をする。 もういっそ人生をやり直せたらいいのに。18の若い身でそう思ったのは、苦しい胸の内を表現したものだけでなく、現実逃避したかっただけだ。親友の好きな|異世界転生《ファンタジー》に想いを馳せただけのこと。その親友との関係だって今日限りのことかと思うと余計に息苦しくさせた。 ふ、と風が目の前を通るのを感じ、その方向へ顔を向けた。そこに立派なお屋敷が見えた。鉄製だろうか、その門戸は風でキィと小さな音を立てた。枯れた蔓のようなものが巻き付いている。 こんなところに、こんな……まさに異世界のような外観だった。門の下、そこに不自然に置かれた看板はそれだけがこの場に相応しくない様に見えた。 “ご自由にどうぞ” 普段ならこんなことが書かれていたとしてもけっして入るような美好ではない。だが、この日は心の勝手が違ったのだ。これが異世界への入り口であろうと、宮沢賢治の“注文の多い料理店”の世界への入り口でもかまわない。そう思ったのだった。 門戸にそおっと手をかけると、火照った手のひらに金属独特の冷たさが伝わった。キィと音を立てて自分の身幅分だけ開くと一歩踏み出した。恐々進んだが、誰もいない様だった。 ──すごい、お屋敷だ。 こんなものがここにあるはずがなかった。あったとしたらこの近辺の学生たちの噂にはなっただろうし、この道だって通ったことがないわけではない。覚えがなかった。もしかしたら、本当に……異世界なのか。建物を見上げ、そう思って気もそぞろだった美好は足元に張った木の根に気づかず、見事なまでに転倒してしまったのだ。どぉんと地響きがするのではないかと思うほど、見事な転け方だった。 ぼこぼことした地面に突っ伏した様を理解する頃には、膝がじんじんと痛み、擦りむいているだろう傷口を見るのに起きる気力すらなかった。なぜ、こんな目に合わないといけないのだろう。この日はもう既にとことん辛いことがあったというのに。 美好はその場でわあわあと声をあげて泣いた。もう何もかも、恥も外聞も何もかも、どうでもよくなったのだ。 「大丈夫、ですか?」 たどたどしく安否を確認する声に、美好はピタリ泣くのを止めた。応えられなかったのも、声を出せなかったのも、恥ずかしかったからだ。恥も外聞もどうでも良かったはずなのに、まさか、人がいると思わなかった。人に聞かれたなら、もう死んでしまいたいくらいに恥ずかしいと思ったのだ。 声の主は低く優しげな声から男性であること、それから心配されているのだと理解する。男性が美好の側に屈む気配がする。いつまでも地面にキスしてられないのは美好にもわかっていた。だが、うら若き乙女が転けてわんわん泣いて、涙かその他の汁物か、地球に激突した際についたであろう汚れた顔を男性に見せられるものか。 「顔を上げて……」 男性が地面と美好の間に手を差し入れて起こそうとする。慌てて制服のポケットからハンカチを出すと鼻に当てるくらいのことは出来た。その後で、ちらとその人を見ると強い西陽に透けた髪は淡く煌めいていた。ぼんやりと顔を眺めると、ああ。と、納得した。 自分は死んだのだと。こんなに美しい人が目の前にいる。しかも、その人の服装からもここが美好の《《元》》いた世界ではないと悟る。慌てて俯いた。 つまづいた木の根、そこから辿り見上げると大木は、ここへ入った時から気づいていた、見覚えのある誰でも知っている種類の木だ。その木の下、屈んでいるせいで西陽は美好の顔も照らしていた。 まぶ、しい。空いた手でその陽を遮った。 ──Under the Spreading Chestnut Tree 不意に、目の前の人がメロディを口ずさんだ。 あ、異国語。と、美好はそんな風に思った。とても単純な英語であるのに。その人は、木を指差すと 「ほら、」と、言った。 さわさわと揺れる広葉樹の葉はまだ濃い緑色で、これが何の木かわかる実を残していた。 「大きな、栗の、木の下で……」 さっきのメロディに乗せて、美好も呟いた。 「うん、おいで。手当てを……」 その人はそっと美好の肘を持って立たせると、美好を建物の中へと案内する。ばさり、マントが翻った。 立ってすぐに膝の擦りむいたひりつきと、打撲の鈍い痛みを感じ、生きている、と感じることが出来た。最もどちらの世界で生きているのかまでは頭がまわらなかった。 玄関は、左右対称の両開き、重量感のある焦げ茶色の木のドアは上部に、アーチ形の色を抑えたステンドグラスがはまっていた。男性がドアを開けると、上階から空気が流れた。 古い匂いと、懐かしい匂い。 美好は、上品な古い家屋の匂いと、どこかで嗅いだことのある匂いに思いを馳せた。どこで、嗅いだのだろうか。知っている匂いだった。 「どうぞ」 その人は美好に椅子を勧めると、自分は床に膝をついた。 「滲みるかもしれません」 そう言われ、美好は自分の傷口から目を背けたのだった。 その日、近くまで送ろうと提案したその人に断りを入れ、逃げるように坂道を下りた。不思議だったのは、辿り着いた時は見たことのない景色に感じられた道が帰りは勝手の知った道だったからだ。 いつもの道だ。通学路。もう二度と会えないかもしれない。あの人に、あの世界に! そっと振り返って見たが、何度か蛇行した道では確認出来なかった。膝の痛みも忘れ、駅に着いた時、もう一度なだらかな坂道を見上げた。 確かに、心神喪失状態であった。死んではいない。わかるのはあんな建物は3年近く通ったこの通学路の延長である道なりに無かったということだった。異世界に転生したのではなく、一瞬迷い混んでしまったのだろうか。 指は細く長いが、男性らしい節があった。膝まづいて怪我を心配する伏せられた瞼、そこから伸びる綺麗に並べられた睫毛は、影が出来るほど豊かで長かった。この世の人ではないくらいに。あの人の家だろうか。古いお屋敷だった。あそこに何十年、それこそ何百年も一人でいるのでは……。信じられないのに、そうとしか考えられず、大袈裟に巻かれた包帯は伸縮性がない生成色の布の様だった。 しかし、これが唯一の本当にあったという証拠だった。 美好にとって、この出来事のおかげで、この日あったもう一つの出来事が色褪せてしまったのは幸いだった。
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