翌日は入学式である。
クローゼットに用意されていたのは、白のシャツに深紅のタイ。
瑠璃紺のジャケット。タイと同じ赤のラインの入ったチェックのスラックス。
ほおずりしたくなるほどの黒い艶肌の革靴。
下着、靴下、プレスされたハンカチ。
どれもがまっさらで袖を通すのがもったいないぐらいだった。
サイズも小さくて辛いということはない。かといって大きすぎるわけでもない。
構内で利用できるプリペードカードもある。
当面必要なもの全てがそろっていることを、昨夜のうちに確認していた。
慣れないタイに手こずった日々希を西野剛がちっと舌打ちしながら手伝ってくれる。
「ほら、これは貸しな」
など、世知辛くいわれてしまう。
だができないものはしょうがない。
西野剛が結んだネクタイはきつすぎた。結局、迎えにきた東郷寮長に結び直されることになったのだが。
朝食は、数百人は入る食堂である。
寝間着のスエットで食べていた実家と違う。他人とこれから生活を共にするのだと実感する。
寮ごとに食堂、大浴場があるという。
高校生活初日の朝食は、同じ総合クラス2に入る西野剛の他に、一般クラスに入る五人と同じテーブルである。
日々希は紺色のジャケットのボタンを下まできちりと留めている。足首にまとわりつくスラックスを短く折り曲げたくなるのは我慢だ。裾をまくりあげている学生は一人もいない。
兄が通っていたという西野剛以外の五人の新入生は、落ち着きなく周囲の内部生をみて頬を上気させている。
日々希はこんなに多くの同年代の若者の気配に囲まれたことがなかった。
朝食は味がしなかった。
唾液が足りなくても無理して飲み込む。それは胃の中で重く沈んだ。
「彼らのようにサマになる学院生になってやる!」
同じテーブルの一人が言った。
今野、山崎、川嶋、広田、下田だったか?同じ制服を着て赤いネクタイを締めた彼らは、体格も顔も違うのに同じに見えた。
彼らは四囲に目を走らせながら自分のことを話している。
興奮し、人の話など聞いていない。
日々希は口々に飛び出す彼ら自身の話と、耳に入ってくる内部生の会話に圧倒され続けていた。
どこの何に集中すればいいのかわからない。
情報量が多すぎた。
「で、藤くん?は、どこを目指しているの?」
川嶋だったか。
黙々とパンをちぎって口に運ぶことしかしていない自分のことを気にしてくれたのだと理解するには時間が必要だった。
川嶋の質問は、日々希がどこの派閥に所属したいのかということだった。
みんな、東条やら北条やら、めざすところがあるようだった。
ルームメイトの西野剛は、目指すのは西条グループ。
昨夜そんな話をしていた。こたえあぐねていると、西野剛が横から助け船を出してくれる。
「ひびきはゆっくりでいいんじゃない?普通に授業を受けて、普通に頑張っていたら、俺たちのように何か見えてくるかもよ?」
開け放たれた窓から涼やかな風が流れてくる。大きな雪のような花びらがふんわりと漂い、日々希のコーヒーカップの中に落ちてきた。
コーヒーは最初に朝食を選んだ時には取っていなかった。誰かが取ってきてくれたのだと思うがわからない。いつの間にか両手に温かなカップを握りしめている。
みんなそれぞれカップを手にしていた。
一方的に打ち解けて日々希を「ひびき」と気易く呼び捨てにする西野剛の存在が、心底ありがたかった。
彼がいうように、焦る必要なんてないと自分に言い聞かせた。
自分は普通の、ド田舎育ちなだけの、平凡な十五歳なのだ。
これからゆっくりと考えていけばいいのだ。
入学式は天井が驚くほど高い、大聖堂で厳粛に行われた。
瑠璃紺の制服と黒い頭が海原のように並んでいる。水を打ったような厳粛さの中、理事の一人が祝辞を述べている。あっという間に式を終える。
通常の高校にあたる高等科に入った新入生のうち、総合クラスは西野剛と日々希だけだったので、二人は常に一緒だった。
二人以外に全員旧知の仲というクラスに、西野剛は愛嬌満載の顔でねじり込んでいく。
一方で、日々希は最初からつまずいてしまった。
三十人クラスは初めてだった。
彼らの前に立ったとき、値踏みするようなさぐるような、対になった黒目玉の一群が一斉に日々希に向かった。
卒倒するかと思った。
こんなことは初めてだった。
血も空気も元気も、身体のどこもかしこにも足りていなかった。
自分が何かを話している。そうだ。自己紹介だった。
自分の震える声が遠くから聞こえてくる。
竜崎村の何年も一緒に過ごし馴染んだ顔たちが、ただただ恋しい。
別の学校に言った海斗たちも、何倍も増殖した見知らぬ同年代を前にして同じように思っているのだろうか。
そう思うと気がほんの少し紛れるだが。
自己紹介が終わっていて休み時間になった。
話しかけてくる男女混合の迫力を前に、たちまち限界が訪れる。
びくつく日々希と対照的なのは西野剛だった。
注目されることも、笑わせることも、物怖じせず愛嬌のある剛がさらっていく。
張り合う気持ちはつゆも沸かない。
注目を集めてくれる剛に感謝しかなかった。
このまま誰にも注目されずに隠れてしまいたかった。
なんとかやり過ごした初日の放課後、早速クラブ活動の見学に誘う剛を振り切った。
日々希は大和薫英学院の敷地内にある落ち着ける場所に逃げ込んだ。
それは、校舎と校門の間にある広大な森の中だった。