第1話 僕とカズヤと光村と 1、金継ぎ 

1325 Words
オーブンで焼ける鶏の匂いが己の肉体の存在を思い出させる。 淡いおぼろな世界からうつつへと誘う。 そんな夢と現の狭間の世界にたゆたい続けることができたらどんなに幸せなことなのだろう。 だが、僕のささやかな望みは一瞬で破られた。 希望を孕んで大きく膨らんだシャボン玉が、千々に砕けてしまうように。 「雅春!いつまで寝てるのよ!今日がどういう日か知ってるでしょう?ちゃんと顔を洗って服着て挨拶してくれなきゃ、わたしが恥ずかしいんだから!」 苛ついた声である。 姉の美奈は、いつも凪いだ海のような静かな僕の空間を泡立てるのだ。 大正時代の遺物のような町家の階段は、雅春のあなうらで僅かに浮き上がり、鴬張りの床のようにきしきしと鳴く。この家は取り壊されるのを待つだけの古い空き家を、古いものが好きな両親が自宅用にと購入し修繕したもの。夏は暑く冬は底冷えするが、自分たちの選んだものに対して当の本人たちは寛容である。 灼熱の夏がようやく終息に向かい、窓を開ければ涼しい風が吹き込む良い季節になっていた。 階段正面の坪庭の萩も赤い花を枝一杯に咲かせていた。 前の持ち主のものだった蹲はそのまま坪庭に置いている。蹲の苔は、差し込む和らいだ日差しに緑の厚みを日に日に増している。 玄関すぐ入ったところは応接になっている。坪庭を挟んだ奥が長いダイニングキッチンである。 ダイニングには母と姉がいる。 長い髪をシニヨンにまとめた美奈姉。 子供のころからきれいだなと思っていた雅春の自慢の姉だったが、フランスに留学するといって飛び出して一年後に帰国した時には、すっきりあか抜けた美人になっていた。同時に、異国の風に鍛えられたのか、好き嫌いの激しい性格のきつさも磨かれている。 「……一体誰がくるんだよ」 アイランド型キッチンから振り返った。 一つにまとめたシニオンからこぼれた頬まである前髪が揺れる。 反則のような柔らかさだ。 「あれ?いってなかったかしら?漆塗りの彼が来るのよ。教育実習はあんたの学校だったといっていたし。パリの博覧会の手伝いをしていた時に、日本から漆の作家としてきていた漸と知り合ったのよ。若いけど、将来有望よ。まあ、芽がでなくてもわたしが養っていくつもりもあるしね! 父も母も会いたいというから、せっかくだからわたしの料理の腕前を披露ついでに、両親に紹介しようと思って。雅春は紹介する必要ないと思うけど」 美奈姉はオーブンから焼ける丸焼きの鳥を取り出した。 母が串をさして中まで火が通っているか確認した方がいいんじゃない?という。 既にウォールナッツのダイニングテーブルにはインドネシア製の紺絣のテーブルライナーが引かれ、備前の皿が並べられている。 生春巻きにはラップがかけられ、彩豊かなサラダが小分けされていた。 姉の得意料理だ。 陶器製の小さな足付きグラスが5客並べられている。目をこらさなくても陶器のグラスには貫入のように筋が入っているのがわかった。 実用からではなくて、芸術的な目的であえて壊され再び組み立て直された、金継ぎの技法。 光村漸の手によるものだと今ならわかる。 光村漸。 彼を知らないはずはない。 彼は、大学まで高望みしなければそのまま進級できる僕たちの、退屈な高校生活に投げ入れられた玩具だった。
Free reading for new users
Scan code to download app
Facebookexpand_more
  • author-avatar
    Writer
  • chap_listContents
  • likeADD