その森は、赤黒いレンガで囲まれた大和薫英学院の敷地内に広がっていた。
遊歩道がよくみればあちらこちらに設えてある。
日々希が飛び込んだ遊歩道には、平たい石を敷き詰められた小道であった。
いくばくも入らないうちに春の午後の重い空気は木陰に冷やされた。 湿度と冷気を帯びた空気は気持ちがよかった。
木立の向こう側にはハーブ園や果樹園、遠くに馬のいななき声が聞こえてくる。 それもしばらく行くと足下の石の道はぼこぼこと荒れだし、獣道のような様相を帯びる。
いたるところが苔むしている。踏めばぐじゅりとわき水がしみ出しているところもある。腐葉土が土に分解される森の豊かな匂いがする。
もう人の手が加わった気配はない。樹齢百年はゆうに超えそうな巨木も多い。
ここは、昔ながらの広葉樹の森。鼻先をぶうんと羽虫がかすめていく。
甲高く鳥の鳴く声が空を突き、どこかでさらさらと清水が沸き流れる音に、ようやくささくれていたような心が落ち着いていく。
ここは、嗅ぎ慣れた竜崎村の森の匂いと似た匂いがした。生まれ育った土地に戻ってきたような気持ちになる。
ウサギも鹿もきつねも狸も、ひょこりと顔を出しそうな気がした。
だがここは大都会のはずだった。学院の敷地内にわずかばかり太古の森の形をそのまま残しているとはいえ、周囲を住宅地や商業地、ビルに囲まれているのだ。
野生動物がいるはずがなかった。
日々希は胸一杯に空気を吸い込んだ。
ようやく楽に息ができる。身体の隅々まで酸素が行き渡るような気がする。
この散歩道がどこまで続くかわからないけれど、自分を取り戻す場所としてこれからの学院生活に使えそうだった。
散歩道はやがて、シダや苔に覆われた岩場から湧き出す清水を受けた、小さな泉に行き着いた。
この清水が流れだすせせらぎの音をずっと日々希は耳にしていた。 岩には桜の巨木が寄りかかる。
キンと澄んだ泉の上に枝を張り出している。いくつもに分かれた枝はいずれにも毬状のピンクの桜の塊をたわわに抱えていた。
「ああ」
美しい。
洋館の校舎の周囲に植えられた吉野桜は満開だったか覚えていない。
ようやく今、花が目に入ったのだった。
枝振りが見事な老木で、泉の周囲だけは蒼空が高くひらき、日差しが落ちていた。
こんな隠れ場所があるのなら、この人の多い寮生活も乗り切れるかもと思う。
桃源郷もかくあるかな。
どこかに適当なところに腰をおろし、水をすくって喉を潤そうかと思い、視線を水辺の縁をたどる。
その時日々希は岩場と背後の森に同化しているものに気が付いた。 それは日々希の存在に気が付き、じっと見つめていたものだった。
「……あんたも逃げてきたのか?」
それは言う。
桜の間をすり抜けた日差しがまだら模様に男子生徒の身体に影を落とす。
ゆったりと背中を老木に預け、片足を曲げ、片足は前に投げ出している。
赤いラインの入ったグレー地のチェックのスラックス。 紺のジャケットは肩に引っかけただけ。 シャツは素肌がはっきりと見えるほど胸元を大きくひらき、朱のタイは乱雑にジャケットの胸ポケットに突っ込まれているのか、赤色がはみ出していた。
自分と同じ高等科の制服とは思えなかった。
驚いて見つめた日々希の視線に動じることはない。彼は少し身体を起こしただけだ。
日々希を見る目は、足下の泉のように冷ややかな色を帯びて、こちらの出方をうかがっている。
野生動物のようだ、と一瞬思う。
それも狩られ饗されるためだけの無害な鹿ではない。
むしろ山猫のような、獰猛な肉食獣だ。
目だけで俺の縄張りから今すぐ失せろと威嚇する。
何回か瞬きをすると、どう猛な妖しさは霧散し、日々希と同年代の少年がそこにいたのだが。
「そんなところにつったってないで、ここに来たらどうだよ?一番いいところはここなんだから」 誘われるまま、彼の近くに歩みよる。
彼が背中を預ける巨木の根の、日溜まりに腰を下ろした。
日差しが温かく心地よかった。
「あんたもって、君も逃げてきたの?」
日々希は言う。
声がかすれた。久々に自分の声をちゃんと聞いたような気がする。
日々希がくるのも構わず、寝る体勢に入って目を閉じていた先客はぱちりと目を開いた。
長いまつげが縁取る目元が暗い。隈がある。
日頃のストレスからか、彼は眠れていないのかもしれないと思う。
だから、新学期の初日の午後にひとりで森林浴にでもきたのだろう。ここは彼の隠れ家なのかもしれなかった。
日々希の目下のストレスは、どこを向いても人の姿に気配の多さである。
「俺が逃げることはない」
「ふうん?そうなんだ」
軽く流した。
逃げる、逃げないは他人に言われるものでもなくて自分がわかっていればいいだけのものだからだ。
いつから彼はいたのだろう。
筋目の入ったチェックのスラックスには、淡いピンクの花びらが幾つも散らばっていた。
花はふわりふわりと雪のように散り始めていた。日々希の鼻先にもとどまりかけた。指先で払うついでに、彼のスラックスの桜をなでるようにして払ってやる。
ふたたび落ちてくるだろうが、ひとまず全てを落として満足する。その手を思いがけない強さでつかまれた。
「痛ッ。な、何を?」
「何をってこっちのセリフだ」
先客は放すどころかさらに力を込める。
日々希は痛みに顔をゆがませた。泉の先客の学生は日々希よりも険しく眉間を寄せ、身体を完全におこして日々希の目を覗きこんだ。
その目は不快感を隠そうとしない。
他人の服の桜を払うなんてお節介なことをしてしまったと後悔してももう遅い。
初めて会った人に対して慣れ慣れしすぎたのだ。
「お前は新手の刺客かなんかなのか?呼べばへこへこよってきて、なれなれしく触りやがって。俺が女になびかないからといって今度は男をよこしてきたか?ちょっとばかり整った顔してるからって俺は容赦はしない」
「はあ?」
何を言っているのか理解できない。
日々希の表情をみていた先客は、いったん剥き出しにした不穏な表情をわずかに緩めた。
間近に直面しているからこそ日々希には手首をつかみ続ける学生の、あり得ないほど秀麗な顔立ちに気づかずにはいられない。
片顔にかかるアシメントリーにカットされた柔らかな髪。少し切れ上がった目は清浄な泉のごとくにらまれ続けられれば、怪我をするのではないかと思えるほど澄み渡る。
つんととがった鼻に薄い唇。
だが、その整った顔立ち全てを台無しにするのは、目の下の青紫に影を落とす隈。
目元が落ちくぼんでいる。
「……刺客じゃないなら、北見の付けた新しい目付か?」
日々希は解放されるどころかグイッと引かれ、この秀麗な男のすぐ横に落とされ、ぐるりと仰向けに押さえられた。
「刺客でも目付でも、少しなら遊んでやってもいいぜ。今日は、暇しているんだから」
顔に似合わない凶悪な言葉遣い。 獲物を逃がさない肉食獣の目に変わる。
まだ日々希と変わらない少年らしさを残している身体の、美しく整った顔が日々希に近づく。
何が起こってるかも理解できないまま、唇に唇が重なる。
押しつけられた温かさと柔らかさにびっくりして、やめろ、と言おうと開いた口の中に、乱暴に舌が押し込まれた。
押しのけようとするが力が入らない。
全ての神経が初めての感覚に集中して、意識を他に反らせない。
「あんた、刺客じゃないな。へたくそだ。ただの、目付けの方だったか?」
馬鹿にした笑いとともに、ようやく唇は解放される。
唇を好きに奪った男は口元を手の甲で真横に拭う。
へたくそといわれてムッとすべきだろうか。
いきなり男が男の唇を奪っておきながらひどい言いぐさである。
そもそも彼の言葉の意味がわからない。
「刺客?でも目付け?でもないよ。ただの新入生。で、へたくそなアレは僕のファーストキス。で、放してもらえる?」
ようやく日々希は解放され、今度は用心深く距離をとった。
心臓がどきどきと打っている。
この森も、この少年も危険だ。
森の奥つ城に忘れられたようにあるこの桃源郷から、ただの人はただちに尻尾を巻いて逃げ去れ!
日々希の本能は警告を鳴らしていた。
お前のファーストキスは奪われた。
この秀麗な若者はお前の全てを奪っていくぞ!
本能がどうして危険を告げるのかわからない。
唇は奪われたが、改めてみれば、彼は甘やかされて育ったどこかの社長の生意気なぼんぼんであるだけのようではないか?
体の大きさも自分とたいして変わらない。
その時、首の後の毛がぞわりと逆立った。
今度は本能は、目の前の彼ではない別の危険な存在を教える。
日々希たちの背後、薄闇の森の奥から何かがじっとこちらを伺っている。
今度こそ正真正銘の獣の気配。耳を澄ませば空耳かと思えるほどかすかに唸り声も聞こえる。
唇を奪った秀麗な若者と森の本物の獣とどちらが危険だろうか、と他人事のように日々希は思った。
「あんたの刺客って、あれのことなんじゃないの?」
日々希は背後を顎でしゃくる。
「なんだって?」
二人は振り返った。
思った通り、平たいミラーのように光を反射させて、それらはいた。