ふたりの背後でのそりと森から姿を現したのは、黒犬だった。
身体は大きくて見るからに強靭そうである。鼻も手足も長くばねのある筋肉が、一足ごとに波のように盛り上がる。その腹は背中につくかと思われるぐらい細い。
ぴんと張った耳は二人に向けられている。その後ろにも反射するもう二対の黄色い目があった。
三匹いる。
「……それともあんたが飼っている犬たちだったらいいんだけど」
「俺の犬のはずがないだろ。それに、大和薫英で放し飼いされている犬などいない」
「じゃあ、あれは何だと思う?」
「……ドーベルマンの、雑種?」
緊迫の場面でも日々希は噴き出しそうになる。
「気を引けそうな、何か食べ物でも持ってる?」
「持ってるはずがないだろ。それにこんなところに犬がいるはずがない」
だが、現実にそれはいるのだ。
野犬の黄色い目が血走り、食らいつく相手を見つけてしまった。
日々希は食べ物で気をそらせればと思うが、何もなかった。
日々希は生唾を飲み込んだ。心臓は激しく打っている。
学生から感じたものとは別種の緊張に身震いした。
黒犬は頭を低く下げてじりじりと距離を詰めてきている。この恐怖は何度も対峙したことあり馴染みのあるものだ。こちらの恐怖の方が何倍もましなように思えた。
唇を奪った学生をそっと押しのけた。
さらに刺激しないように日々希は向きを変えて黒犬に向き合った。
緩慢な動作でジャケットを脱ぐと左腕にぐるぐると巻いた。
ひじを盾のように顔と喉を守る。
視界の端にあった桜の折れた枝を掴み、犬を刺激しないように立ち上がった。折れた枝の根本に近い方を野犬に向ける。
黒犬は飛び掛かるタイミングを計っていた。
「僕たちは獲物ではない。主人の元に帰れ。もしくは僕たちはここから出て行くから。お前たちの領域を侵していたのなら謝るよ」
ことさら穏かに言う。このまま見逃してくれることもあり得た。
犬は唸ることをやめて日々希をみる。
ぴんとはった耳を日々希に向け日々希の声の調子に頭をかしげる。
血走った目にわずかに戸惑いが見えた。
この調子で語り掛ければ彼らの間合いから逃れられるかもしれなかった。
だが、日々希の抱いた期待はすぐに砕かれる。
「あっちに行けっ」
にらみ合いに業を煮やしたのは秀麗な学生。
止める間もなく、彼は手じかにあった拳大の石を掴み犬に向かって投げつけた。
日々希は口の中で悪態をつく。
犬には当たらない。だがそれが合図となった。
犬は唇をまくりあがらせ牙をむく。自分に石を投げた学生に飛びかかった。
咄嗟に日々希は曲げた前腕を突き出し犬と先客の間に入る。
黒犬は日々希の腕に噛みついた。
巻き付けた服がクッションとなるが、厚みのある牙が食い込みぎりりと骨が軋んだ。
むりやり振り払えば肉が持っていかれてしまう。
獲物に食らいついた野獣の目は興奮し、怒りのスイッチが入ってしまった。
もう日々希の声は届かない。
日々希は黒犬が牙を腕に食い込ませるのに任せ、枝を握り直してギザギザの折れ口で真横から急所の喉を指し貫いた。
ぎゃんと哀れな声で鳴き、日々希は解放される。
「一匹!」
二匹目の影が地を這うようにして日々希の横を回り込んでいた。
狙いは日々希ではなくて後ろの学生だった。
横をすり抜けて襲い掛かろうとした犬の鼻先に、枝先をムチのようにしならせて鋭く叩きつけた。枝についた一匹目の血しぶきが弧を描き飛ぶのも構わない。
長い鼻柱に受けた衝撃でぎゃんとなく。
二匹目は元来た森へ逃げ去った。
「二匹!次は、、、」
次はなかった。
最後の一匹の気配はもうなかった。
激しく息が弾んでいる。
手には肉を突いた手ごたえが残る。
噛まれた腕は、体中に一気に巡ったアドレナリンのお陰でまだ痛みを感じない。
興奮と無敵な感覚が体を支配している。
足元にはドーベルマンが口から赤い血の泡を吐き痙攣している。
彼はもう助からない。
襲い掛かってきたのは犬の方で正当防衛ではあるが、一息ごとに興奮が冷めていくにつれ、生き物を殺めてしまった悲しさに心がうずく。
日々希は大きくため息を吐き興奮を吐き切った。
愚かにも石を投げ犬をけしかけることしかしなかった都会の若者を見下ろした。
「野犬にしては色ツヤがいいし耳も切られている。飼われて訓練されている犬だった。刺客に狙われているっていうのは犬のことだったんだ」
どうしても皮肉がまざってしまう。
襲われかけたはずの少年は片膝を立てて背をまっすぐに起こしていた。
初めて見るように日々希をみていた。
「すごいな。助かった。今度の目付けはすごい迫力だな」
「だから、僕はただの新入生だから……」
「ただの新入生が、襲う犬を仕留めたり撃退できるとはとても思えないんだが」
彼が当然のように手を差し出したので、日々希は掴んで起こしてやる。
背は日々希よりもすこし高いぐらいだった。
「僕は山育ちだから、動物の危険には慣れているから。たまに野犬も相手にする。戦うより脅かして追い払う方がいいよ。人を怖いと思えば襲われなくなる。でもどうして学校の敷地に襲い掛かってくるようなドーベルマンが野放しにされているんだ」
さあ、と肩をすくめてみせられても日々希は納得がいかない。
初日から犬に襲われるなどありえなかった。
「目付けじゃなければ、名前はなんていう?」
「藤 日々希」
少年は整った眉を思案気に寄せた。
「フジヒビキ……。フジは不治?それとも不死、富士か。壮大な名前だな。
ひびきはいいな。で、どこの派閥だ?」
この場でまた派閥の話がでるとは思わなかった。
気にするヤツはどこにでもいる。
「フジは藤の花の、藤!僕は、派閥なしの、パンピーだよ」
彼はぱちくりと目を見開きまじまじと日々希を見た。
「パンピーだって!?」
日々希はその驚きように、平家にあらずんば人にあらず的な感じなのかなと思う。
そんなにパンピーが珍しいのだろうか。
もっとも、彼らは平家ではなく、源氏一族らしいが。
はじめの衝撃を流すと、少年はキラッと目を輝かせた。
「どこにも属していないというのならあんたは俺がもらった!」
「はあ?」
「あんたが欲しいんだ!」
日々希は何を言い出すかと、目の前の少年を見る。
新しいおもちゃをねだる子供のように、何を言い返しても譲らない目をしている。
この場合、欲しいという対象は日々希であるが。
彼は暇つぶしに日々希の唇を奪ったように、自分の全てを奪うのだろうか?
再び警告ランプが明滅し始める。
この少年は危険。
ここから今すぐ立ち去らなくてはいけない。
彼には自分とそう変わらない小柄な体に、揺るがない自信と強さと、人を巻き込まずにはいられない何かを纏わせている。
「欲しいって何を?またキスでもする?」
「あんたの人生」
彼はいい放つ。
ああ、彼に自分を持っていかれる!
日々希は思った。
こんなにまっすぐに、自分を丸ごと求められたことはない。
そして、僅かに見下ろして少年は意気揚々と続けようとする。
常に自分のペースで進める者独特の、傲慢な色が見える。
きっと彼は拒絶されることを知らない。
「俺の名前は……」
その名前を聞いてはいけないような気がする。
今ここで聞いてしまえば、彼の名前が心に刻み込まれてしまうような気がした。
日々希には何もない。
生まれ育った自然も友人たちもみんな置いてきてしまった。
緊張を強いられる慣れない環境で、その中でも安らげるはずのところを見つけたはずだった。
安心したところで日々希は不意を突かれキスされ犬に襲われた。
だが、本当に危険なのは牙をむく犬なのか、それとも目も前の、目にクマをつくる丸腰の少年なのか。
「もう、いいよ。君が無事なら良かった。僕はもう戻る。犬がまた戻ってくるかもしれない。君も一緒に帰る?君は帰ってベッドで寝なよ?目の隈、ひどいよ」
見れば見るほど目の隈が痛々しい。
少年の苦悩を表しているように思えた。
「大きな会社のお坊ちゃんも大変なんだな。晩御飯まで数時間あるから本当にあんた寝なよ?」
「和寿だ」
「和寿」
桜の花びらが舞う。彼の頬にひらりと降りかかる。
日々希はつい、怪我のない方の手で滑らかな頬に手を滑らせてしまった。
以前よくなついていた猫は頬を撫でられるのが好きだった。
「あ、ごめん……」
眉をよせられて慌てて手を引いた。
またやってしまった。自分はどうかしている。先ほどそれで警戒されたのだった。
日々希は来た道を引き返す。先客がついてこないのはしょうがない。
次第に噛まれた腕も痛みだしていた。
ジャケットを貫き牙は肉に達しているようだった。
紺色のジャケットが黒く染まっていく。
日々希は怪我の様子を見る代わりにジャケットをキツく巻き直した。
もう、森には怪しい気配はなかった。
日々希を欲しいといい放ったのは、彼も桜の花びらの魔法にかかったのだろう。
それは一晩寝たら覚める魔法の類いのようなものなのだろうと思う。
***
残された北条和寿は、日々希の背中が見えなくなるまで見送っていた。
「そこにいるんだろ?北見」
日々希が通りすぎた散歩道の大木の影から、長身の学生が必死に笑いを堪えながら姿を現す。
「和寿さまがいつになく楽しそうだったので、出るタイミングを逸しました。それに、はっきりと振られましたね!あんなにはっきりと欲しいと言われたのに、おかわいそうに無視されて……。振られるところを初めて見ました」
北見は悪びれずに言う。
北見家はずっと北条家に仕える、和寿の影のような存在だった。
彼はひとつ上の学年で、正真正銘の和寿の目付でもある。和寿が行くところには必ずいる。
その存在さえも普段は忘れているぐらいだった。
北条和寿はムッとした。
「俺が振られるなんてことはあり得ない!彼は、本当にパンピー、どこの派閥でもないのか?」
「さあ?少なくとも北条ではありませんね」
「調べられるか?」
「新学期が始まったので、ご存じの通り、外界から遮断されてしまいました。すぐには裏付けは無理かと。犬をけしかけた襲った者の存在も調べなければなりません」
理事長なら藤日々希の入学経緯を確実に知っているだろうが、北条和寿は聞くつもりはない。
頼み事も弱みも、学院の理事長で、実の父親である北条久嗣に見せたくない。
和寿は日々希に触れられた頬に自分で触れる。
まだ指が触れられているかのような、ちりちりとこそばゆい感じが残っている。
「わかり次第教えてくれ」
「人に興味を持たれるなんて本当に珍しい。しかも男性ですよ?」
「別にいいだろう?遊ぶぐらいだったら男も女もどっちも変わりない。それに、彼は命の恩人でもあるから」
「あれぐらいご自分で対処できるでしょうに」
「それはそうだが、彼がどういう対処をするのか見たかったんだ」
確かにあれぐらいなら和寿ひとりでも対処は可能だった。
伊達に子供の頃から北条家の後継ぎとして狙われたり、誘拐されかけたりしていたわけではない。
護身術は身に付けている。
だからあえて犬をけしかけてみた。
和寿は、あのやわらかな表情をする新入生がどのように無様な格好を晒すのか見て見たかったのだ。
そして、見事に裏切られた。危険を前にして、別人のように表情は引き締まり、戦う男になった。
キスをすれば戸惑いながらも受け入れたではないか?
もっと彼のいろんな顔を見てみたい気がする。
「そろそろ戻られますか?」
返事はしない。日も傾きだしている。
藤日々希がいなくなった泉のほとりは静かすぎるような気がした。
彼が来るまでは静寂こそ求めているものだったのに、今では味気なく感じるのだ。
その後ベッドに就いた北条和寿は、翌朝北見に起こされるまで夕食も食べず延々と12時間眠ったのだった。
久々の熟睡だった。