「ご飯」
考えるまでもなく口を衝いた返答にカズヤはまじまじと僕をみて、ぶはっと噴きだした。
「カズヤんとこの飯はつやつやでうまいから」
「お前なあ、花より男子(だんご)、ならぬツヤ事ならぬツヤ飯かよ。おこちゃまだな」
僕はあっさりと解放される。これが女ならこうは解放されないはずだった。カズヤはモテるだけでなくて自分からも狙った女は速攻落としていたし、フルのも速い。
男の僕とのキスは好奇心だろうと思う。
カズヤがもう少し僕とキスをしたいと思っても、僕のたいして鍛えてもいない体を触りたいと思ったとしても、気分がそらされればすぐに手放せる程度の軽いものである。ツヤ事をするならば、カズヤだって女の方がいいに決まっている。
僕は解放されて心底ほっとするが、それを悟られないようにする。
僕とキスをして、進むのか辞めるのか僕に選択権を与え、そして僕がどうするのかカズヤは楽しんだ。カズヤのターゲットに僕がなる可能性もゼロではないような気がしたのだ。
ターゲットは光村漸だ。僕ではない。
カズヤと連れだって階下のキッチンへ向かう。
二階から一階へ降りる間にも壁をくりぬかれた棚があり、螺鈿が桜の花びらの形に塗りこめられた黒塗りの鼓が飾られていて、この階段を通る度に目を奪われる。
カズヤが自分の家が好きでなくても、僕はカズヤのいかにも京都らしいお茶屋というか町家の雰囲気が好きだった。
キッチンへの廊下を歩けば、踊りの稽古をしている襖が開け放たれていて、舞が見える。
綺麗に髪を上げた女の人が季節を先取りした青アジサイに雫の着物姿でお振りを手にして回っていた。
カズヤが嫌いという化粧の匂いや匂い袋のような着物の匂いを、僕は嫌いではない。
カズヤの母の玲子さんは僕をみて、手を叩き拍子をとりながらも、大輪の芍薬をくしゅりと崩したような笑みで歓迎する。カズヤは無視だ。
キッチンはこじんまりとしていながらも大きな机がどんと置いてある。壁一面に食器棚がしつけられていて、ぼくの家の感覚ではありえないほどきっちりと、大きさも形もさまざまな器が重ねられ収まっていた。
美の追求と完璧を追求するストイックさが食器のしまいに現れているのだと感動さえ覚えた。
机の上には煮魚の大皿と布巾をかけた杉のおひつが置いてある。
煮魚の甘い匂いとご飯の炊ける匂いは、外をあるいて遭遇すれば今夜は煮魚が食べたいと思わせるあの匂いだった。
「いいから座っていろ」
カズヤは適当に棚から皿を取り出し、迷うことなく長箸で煮魚をとりわけ、ご飯をよそい、温めたみそ汁をよそう。
漬物はキュウリとダイコンのぬか漬けで、ダイコンはまるではなくて六角形に飾り切りをしてあった。
僕が艶のある飯を黒塗りの箸で食べるのをカズヤも食べながら見ている。
カズヤの家で食事のお相伴をするとき、普段から決して饒舌とはいえない僕の舌は、さらに言葉を失ってしまう。
「……ハル、何考えてるんだ?」
カズヤは煮魚から器用に骨をより分けていう。
彼の箸の動きは美しい。彼は僕の箸使いの先生にしていることを知っているのだろうか。カズヤはどんなに父や母を拒絶しても、僕の目には、カズヤの中には母の美を追求する姿勢が染み込んでいるように見えた。
「美味しいなって」
「それ以外にもあるだろ」
「美しいなって」
くすりとカズヤは笑う。
「美味しいも美しいも同じように聞こえるんだが。で、何が?」
僕はダイコンのぬか漬けをつまんだ。
「ぬか漬けのダイコンをこんな風に六角形に切ってたべたことがないよ。見た目にも美味しく感じられる。うちではだされたことがないよ」
ぱちくりとカズヤは瞬いた。
「あ、それか。それはただの六角形ではないいよ。亀の甲羅を模してカットしているんだ。味噌汁の里いもの、鶴の子形にも気が付いてほしいな。鶴と亀だよ。それにハルがずっと手にしているのは備前焼きの湯飲み。お前それがお気に入りだろ」
カズヤの指摘通り、僕の左手は食事中、ずっと赤く黒く色変わりする模様の備前の湯のみに触れている。
ほうじ茶も美味しいが、ザラリと固く焼きしめられた肌触りと暖かさが、一度口をつけてしまうと離れがたく感じる。だが、食事中に箸を持たない側の手で触れ続けるのは作法に沿っていなかったかもしれない。
「ほんとはさ、もう少し進んでおきたかったんだけどな」
さらりとカズヤが言った言葉に僕はドキリとする。
「僕がやるのはキスまでだよ。それ以上はやらない。というかできない。そもそもキスだって、光村漸を僕が襲うような形で無理やりになるかもしれないけど。その時に写真をうまくとってもらわなきゃ困る。それ以上のイロジカケはいろいろと無理だよ」
「俺に成功したじゃないか。もう少し先だって俺と試せたのに。案外イイかもしれないだろ」
僕は後半は無視した。
「僕のイロジカケに参ったなんて思ってないくせによく言う」
カズヤは声をひそめ、顔を寄せてくる。
「興味あるんだ。ハルとならしてもいい気がする」
「僕は興味ないよ。カズヤが興味あるならトシかヒロとすればいいだろ」
「カブトムシがどうこう言っていたヒロは駄目だろ」
カズヤはあいつらとはあり得ないと体をのけぞらせて笑った。
軽めの食事もひと段落して、カズヤも備前の湯飲を口にする。とたん、不快気に眉を細めた。
「あ、この備前駄目だ」
「何が?」
「飲み口が欠けてしまっている」
そのままじっとカズヤは器を見ていた。
あまりに長い間みているので、僕は不意に不安になった。
「どうしたんだよ?」
「これ使えるかも。光村漸は金継ぎが専門って言っていただろ」
それは何度か光村漸と女生徒の会話から漏れ聞こえてきたことだった。
カズヤに言われるまで忘れていた。
カズヤは割れた飲み口を避けてぐびりと飲み干した。空になった湯のみを掲げた。
「これを金継ぎしてもらうことをきっかけにしたら近づけるぜ。ハルの家にもかけた器やガラスなんかあるだろ?個人的にヤツに依頼してみようか」
カズヤは立ち上がり、食器棚の食器をひとつひとつ透かして見始めた。
「今度、お前のことをきいてくる先輩に会わせてやる。ハルは自分の事知らなすぎるよ。自分の蠱惑的な魅力を知った方がいいぜ?」
蠱惑的な魅力で今度は僕が噴き出したのだった。