午後の最後の時間は拷問のようなものである。
このところ放課後の睡眠タイムが蒸発してしまった。その代わりを僕の身体はいつもの時間に睡眠がとれないならば確実に確保しようと前倒しする。
午後の時間は眠気が襲う。名指しをする先生ならばあてられた時のために今どこにいるのか無理やりにでも起きるのだけれど、そうでない授業の場合は耐えられない。
受験にあまり関係のない教科ならば、教室の空気も緩い。クラスメイトの身体から眠気ホルモンが揮発して教室内に満ちているのではないかと思えるぐらいだった。
光村漸が教壇にたつ。美術の授業だけでなくて、僕のクラスのホームルームの司会も彼がしている。
山田ザビエルは教壇の横の、先生用の机に座り、光村漸の進行に汗をふきながら聞いている。
授業はSDGSで、人類の未来は若い君たちの生き方にかかっている、というような内容だ。
人類の宿痾を僕たちに押し付けて、バトンを渡したつもりになって、責任転換するずるい大人たち。
彼らは自分たちの快適さを手放さず、汚れた地球を僕たちに残していくのだ。
「……さん?そこを読んでください」
「……さん?それについてあなたはどう思いますか?」
「5番目のそれについて、身近でできることはありますか?……さん?」
「……さん?では……さん?」
光村漸の声は低いトーンで静かに語られる。言葉遣いが丁寧でなめらかで、心地いい。
彼の指の動きのように声色は繊細で微細に変化に富んでいる。耳を傾けていると言葉の意味とはまた違った景色が見えるような感じがする。
薄目を開ければザビエル山田だとおざなりな女子生徒たちも、今日の午後は前を向いていた。
僕は光村漸の言葉にざらりとした不調和がちらつくことに気が付いた。
その原因をさぐろうと僕は再び目を閉じて光村漸の声を観察する。
「藤崎さん?それについてどう思いますか?」
僕は文字とおりびくりと飛び起きた。驚きすぎて椅子ががたんと後ろにずれた。
「僕の授業は眠いとは思いますがもう少しの辛抱ですから」
教壇の光村の冗談に教室が沸く。
前の席のカズヤが斜め後ろに顔を向け口パクだけで何してるんだよ!と僕に喝を入れる。
カズヤの怒りは僕を冗談の種にした光村漸に向かっている。
僕の代わりに隣の女生徒、古谷綾が立ち上がった。
「わたしからいいですか?」
「古谷さん?どうぞ」
「先生は金継ぎを専門で勉強されていると聞いたのですが、金継ぎとはどういうものですか?金を接着剤にできるものなのでしょうか?」
「金は接着剤というよりも飾りなんだ。金でなくて銀ですることもある。そうすれば銀継ぎなるけど、金継ぎの方が有名になっているね。値段的に金の代わりに銀なので安く仕上げることができるよ。質問の接着剤は、漆をつかう。漆は乾くと強固にかたまって、酸にも熱にも強い。縄文時代に朱漆を塗ったものも出土しているぐらいでその頃から……」
自分の仕事に関係することを話す光村漸の言葉に不安はない。
生徒の名前を呼ぶとき、その名前の語尾に、ちいさなはてなマークを付けたいぐらい上がるのだ。
藤崎さん?三浦さん?犬養さん?
彼は途中から男子もさん付けで呼ぶように変わっている。
ザビエル山田に指導されたのだろう。今はもう、建前としてジェンダーフリーの時代なのだ。
その上がる語尾が不調和の元凶だった。
授業が終わる。
僕の目の前でポニーテールが弾んだ。教室を出た光村漸を古谷綾が追いかけていく。
陸上部の彼女はわずかに左右の足音の音程が違う。
去年アキレスを断絶した後遺症を引きずっている。
僕の聴力は能力上限限界にまで拡張される。
古谷綾は手に持った何かを光村漸に見せていた。
「……古谷さん?なるほど割れちゃったんだね。これを金継か銀継で直して欲しいのか。生徒に個人的な商売はできないから今は受けられないんだけど……」
光村漸の横の、古谷綾の視界に全くはいっていないであろうザビエル山田が手を叩いた。
「古谷さん、イイ心がけですね!これはSDGSの授業の一環の校外学習として、希望者に金継ぎ体験をしませんか!このままだと割れた皿はゴミだけど、金継ぎだとまた使えるようになる。これはいいSDGSの実践になるではありませんか!」
光村漸の低いトーンと対象的に声高にSDGSを連発するザビエル山田は勝手に盛り上がっている。
ザビエル山田は身勝手なセックスをするタイプだ、とカズヤに言われかねないちぐはぐさである。
そこへ、教室の女子たちが顔を見合わせると立ち上がって古谷綾に追いついた。
わたしも持ってきます。
やりたいです。
なんなら、先生の工房にもっていきますからそこで教えてください。
とかなんとか。
カズヤは椅子を僕の机に押し付けいった。
「ホント、むかつくな、光村漸。お前のミューズの心を奪ってるんじゃないか」
僕の引き結んだ口元をカズヤは目を細めてみる。
僕たちの考えることは、女子たちは既に思いついていたようだった。
僕のカバンの中にも、昨日持ち帰った備前の湯飲みがハンカチにぐるぐる巻きにされて入っている。
カズヤは付け加えた。
「部活の後、先輩に美術教室に来るように言っておいたから、ちょっと話でもしてみろよ」
「面倒そうだから遠慮する」
「いいから。お前の自覚を目覚めさせてやるから。あの群がる乳臭い女子たちより、お前の方がイイって絶対」
カズヤは言う。
僕の目を蠱惑的な目だという先輩と話をして僕が自分の魅力を自覚する、そのことにカズヤは意欲を燃やしていた。カズヤが面白く思うほど、僕には面白いとは思えない。
「嫌な予感しかしないんだけど」
「大丈夫。俺もいてやるから」
カズヤの言葉をまるまる信じては駄目だということは経験上知っている。
そういう不誠実なところも魅力だといえるのだが。
そして、この日の午後、カズヤが美術部の活動に参加することはなかったのだった。