9、先輩

3663 Words
美術部は、基本的に自由に各自がそれぞれ自分で定めた課題に取り組んでいる。 僕はもっぱら鉛筆でのデッサンである。色絵具を準備する必要もないし、パレットや筆を洗う必要もない。昼寝が奪われたので、昼寝の次に楽にできるのは何かというと、ずぼらな僕の選択肢はデッサンしかない。 今日は光村漸は誰かにひきとめられたのだろうか、教室に来るのが遅かった。 僕はスケッチブックに向かい合い、適当に線を走らせる。 何も考えず手が動くままに線を引く。次第に描きたいものが白地に浮き上がってくる。 一枚目の絵は中学の時のカズヤだった。 カズヤはサッカーをしている時はいきいきとしていた。 ゴール前で指示する声は遠くまで飛んで、彼がチームの守護神、指令棟だった。 僕はサッカーはしなかったけれど、中学校の頃遅くまで練習していたカズヤを将来どこかのクラブチームに入るものだと思っていた。カズヤのあの頃の姿は記憶に刻まれている。 天気のよい午後の時間帯、美術部ほど彼にとって似合わない場所はないのだ。 カズヤの次は、古谷綾の姿が浮かび上がる。 彼女の元気な姿ではない。 特に印象に残っているのは彼女が去年の国体を前にして、400メートルの選手に選ばれたのにも関わらず直前に練習のし過ぎでアキレス腱を切ってしまい、松葉杖なしでは動けなかったころだ。友人たちが国体に出るのを彼女は応援していた。 自分ならもっとできるのにというくやしさ。周囲から可哀そうがられるのを大丈夫よ、みんな気にしないでがんばってねと健気に笑っていた古谷綾。 僕が彼女に注目したきっかけは悲惨な状況でも顔で笑い、胸の中で泣いているその涙が見えたような気がした、その時からだったように思う。 「それは古谷さん?同じクラスの」 光村漸がいつの間にか教室にいた。彼は僕の後ろに立っていた。 彼が背後にいると思うとうなじの毛がざわざわとする感じがする。 「いえ、別の人です」 「そう?そのポニーテールなんか似てる感じがする。だけど松葉づえをついているね。古谷さん?は怪我したことがあったのかな」 本当に彼女の名前を連呼するのをやめて欲しい。 僕が古谷綾にほのかに恋心を抱いていることを誰にも明言したことはない。 カズヤは僕が言わなくてもからかうぐらいだから知っているけれど。 「今日は僕の手を描いてくれないんだね」 結局、光村漸は僕にばつの悪い思いをさせた上で、これをいいたいだけなのではと思う。 「今度先生を描くときは全身を描くつもりですから。モデルがいないと観察できませんから」 「彼女のように、印象をかいてくれてもいいのに。そっちの方がかえって本質をとらえらえているんじゃないかな。藤崎くんにとって僕はどんな印象なんだろうと興味があるよ」 「僕がもつ、光村先生の印象ですか?」 「そう」 「光村先生、わたしの先生の印象はこういうのです!見てもらえませんか」 横から割り込むのは前回もそうだったけれど、今回も鈴木京子だ。 鈴木京子はこのところ僕のすることをまねているような気がする。 美術部には相変わらずにわか画家志望で大賑わいだが、光村漸は活動時間に一度は僕のところで足をとめて、コメントをくれることに僕は気が付いた。鈴木京子が僕の席の隣にいるのは、光村が僕に話しかけることを見越して、自分の指導に持っていこうとする作戦のようだ。 現に、光村は鈴木京子のところへと移っている。 「藤崎くんのように……」 僕の名前が出てきて鉛筆を持つ手が止まった。 僕だけくん付けだった。ザビエル山田に言われて男子も女子もさん付けに統一したのではなかったか。ホームルームでは僕の名前もさん付けだったはず。 それから僕の名前の語尾は上がっていない。 どうして他の人の名前の後ろは上がるのに僕の名前はあがらないのだろう。 不思議だった。その疑問はひとりで考えてもわからずだらだらと残りの時間を過ごしてしまう。再び光村が僕のところにくることはなかった。 カズヤに美術教室へ先輩が行くのでよろしくといわれた手前、先輩を待つことにする。チャイムで部員は帰りはじめ、鈴木も片付けた。ちょっと用事があってと声を掛けられる度に返事する。そのうちに僕は最後になってしまった。 光村漸は誰かに呼ばれて教室にはいない。 石膏像が鎮座する教室は石膏像が動き出しそうで怖い。 もう帰ろうかと思った時、がらりと扉があいた。日に焼けた顔に眼鏡の上級生が顔をだした。僕の顔をみるとぱっと笑みが浮かび、続いて申し訳なさそうな顔になる。 「藤崎くん、待たせてごめんね」 僕はスケッチブックと鉛筆を鞄にしまった。 彼が、カズヤの言う先輩だった。 教室を眺めまわしてからおずおずと先輩は足を踏み入れた。背中でぴたりと扉をしめた。 僕の名前を先輩は知っているのに、先輩の顔も名前も僕は知らなかったことに今更ながら気が付いた。 名前を訊くべきかと考えたが、訊かないことにした。 今日限りで会うつもりもないから。 「僕に話ってなんですか」 「ああ、最近はサッカーを見に来なくなっていただろ。気になって」 僕はカズヤの応援に何度か行ったことがある。先輩はカズヤのチームのレギュラーだ。グランドで走る姿を見たことがあった。カズヤと同様に女子たちに騒がれていたように思う。あのころは眼鏡をかけてなかったような気がする。 高校に上がりカズヤがサッカーから離れて、僕も自然とサッカーグラウンドから遠ざかっていた。 「三年になってから部活から受験勉強一色になったよ。これから学校が終わったら予備校にいくことになってもっと自由がなくなる」 「受験をするのですか?」 馬鹿な質問だと思う。エスカレーター式の学校で受験勉強をするのはもっといい大学に行くためしかないのだ。 「そう。だからその前にこうして藤崎くんと二人だけで話せて嬉しい」 先輩は僕のところまで歩いてくる。窓から夕陽が差してくる。 僕は立ち上がった。先輩が歩んでくるのに任せる。先輩と会うのは、彼が僕の中の気付きを引き出させる触媒のようなものだ。自分の蠱惑的な魅力を自覚する。 そんな魅力があるのならばだ。 「君の絵が見たい」 「要件はそれですか?」 「それから君のことを雅春くんって呼んでもいいかな」 正直いうと、僕はもう面倒になっていた。 初めて会う人に対して図々しい要求だと思う。先輩とはあまり親しくなりたいと思えなかった。絵を見せるのも下の名前で呼ばれるのも嫌だと思う。 だがそんな僕の気持ちなんてくみ取る能力は彼にはなさそうだった。 「やっぱり間近にみても蠱惑的だよ。魅力的ともいう。他の人にもよく言われてるんじゃない?」 「そんなこと誰にも言われません」 ははっと先輩は笑う。 「じゃあ、僕が最初にそう君に告白した人になるのかな。そうだったら嬉しい。てっきり君はカズヤのことが好きだと思っていたからあきらめてたんだけど、カズヤはもう関係ないといっていたから、僕にもチャンスをくれっていったら君に伝えてくれた。そして僕は勝負に勝てて嬉しい」 「勝負……?」 「カズヤは、雅治くん次第だと言ったんだ。君が僕と会ってもいいと思ったら教室で待っていてくれるって。だから、ここにいるということは、僕のことを受け入れてくれたということだね」 「はあ?それはちょっと話が違う」 「違うって?」 「先輩からの話を聞いてくれってカズヤはいったから残っていただけです」 先輩は首を振った。納得がいかないらしい。長い足で数歩で僕との距離を詰めた。 僕は不意に悟った。ここは美術教室。石膏像以外に僕と先輩とふたりきりだった。 扉は閉まっている。光村漸が戻ってくる気配はない。光村漸は戻ってこないかもしれない可能性があることに気が付いた。そうなれば、このまま名前もしらない先輩と二人きりだった。 しかも密室状態ではないか? 「せっかくふたりきりなんだ。君に触れたい」 日はもう傾き始めている。 夕日に照らされた先輩の顔は真剣で緊張していた。僕はその左横をすり抜けようと体をずらした。 だが逃げ道はさっとふさがれる。今度は右横を抜けようとする。 先輩の身体は右前を遮った。 「君はずっとカズヤのものだと思っていた。あんな節操のないヤツなんてやめて僕にしろよ」 「僕は誰のものでもないですから」 僕は必死に逃げ道を探した。大きく迂回して反対の扉を狙うが、先輩は扉前に立ちふさがった。 「先輩、何か誤解してます。もうじきカズヤもきますから。こんな話ならもう帰ります」 「カズヤは来ないよ。ヤツは僕に借りがある。彼がこの場をセッティングしたんだ。僕以外に誰も来ないように」 先輩は扉を背にしてじりじりと僕を壁際に追い詰めていく。 僕は血の気が引く。もしかして、これは本当に非常に危険な状況ではないか? 「君に触れたいだけなんだ」 どこにふれたいというのか? 先輩の手が伸びた。 僕は先輩の肩を狙って鞄を振った。だが、相手はサッカー選手。動体視力は半端ない。 鞄が当たる前に僕の手首がつかまれひねられた。 鞄が床に落ちてカツンと鈍い音。鞄の中のしまわれたままの備前の湯飲みが割れた音。 どうしても振りほどけなかった。 手首はきりきりと痛んだ。
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