10、告白

2275 Words
「痛っ」 僕は痛みに顔をゆがめた。 万力のように感じられた手首をつかむ力が、瞬間に緩んだ。 「ごめん、傷つけるつもりはないんだ。雅春くんの嫌がることはしたくなくて」 先輩の顔は自分が痛めつけられたかのように歪んだ。 眼鏡の奥の、先輩の目に夕日の赤が燃えている。先輩の身体の奥で燃える欲望のようだ。 先輩の欲望は、僕の目の前でゆらりと変化する。苦悩と焦りがかわるがわる現れては、一方で炎を掻き立て、一方で鎮めようとする。 僕の右手はせめぎあっている今なら引き抜くこともできそうだった。 だが、乱暴に引き抜けば、かえって欲望を煽ることもあり得た。 だから、僕は掴まれていない方の左手を伸ばした。先輩の頬に触れる。 さらに手のひらを頬に押し当てた。過酷なスポーツをする男のそげた頬は、骨格をそのまま手に伝え、筋肉質だった。奥歯を噛み締めたのも、手の平の筋肉の躍動でありありとわかってしまう。唾を飲み込む音も聞こえてくるようだった。 僕の行動に、欲望も苦悩も焦りも蒸発し、先輩の赤い目が歓喜に沸き立った。 僕の手の上から先輩は自分の手を当て、さらにほおずりするように頬に押し当てた。小指が眼鏡にふれて、彼のメガネをずらしても構わない。何かを祈るように目が閉じた。 そして、唇を寄せて僕の手のひらにキスをする。 僕はその唇と手のひらに吐き出される息の熱さに震えた。 「君の事が好きなんだ。藤崎雅春。君が、カズヤに一杯食わされてここに残っていたのはわかった。 僕は君に僕のことを見て欲しい。何が好きでなにが嫌いで、どこの大学にいきたくてどんなに頑張っているのか。君の目に僕がうつって欲しい。君の目が僕を追って欲しい。カズヤではなくて」 淳史(あつし)先輩。 不意に僕は先輩の名前を思い出した。カズヤの前で、ゴールを守るディフェンダーだった。 毎回試合にでていたカズヤとちがって、ベンチを温めている時が多かった渡瀬淳史。 カズヤが敵のシュートを阻止した時は、ベンチからいつもガッツポーズで応えていた。 今まで彼のことを忘れていた申し訳ない気持ちが沸き上がる。 そして、彼の気持ちに応えられない申し訳なさを。 人を好きになる気持ちは一方通行だ。 僕に向かってきた淳史先輩の好意を僕は受け止められない。 「淳史先輩、好意を持ってくださってありがとうございます、でも、ごめんなさい」 「あいつは、カズヤは良かったのに?」 「カズヤも、幼馴染の友人であって恋人じゃない」 先日キスをしたことは言えない。それを言えば、先輩に希望をあたえてしまうような気がした。 淳史先輩に、僕とカズヤが付き合っていないことにほっとする気持ちと、僕が男性を恋愛対象としていないことの事実に気が付いたことのショックが入り交ざった。 彼が望む未来に僕の姿を想像することができなかった。 僕は手を引き抜いた。するりと頬と先輩の手から、すり抜けた。 手首を掴んだままのその手に沿えた。 先輩の手は人形の手のように、たやすく解けた。 先輩の中の、僕が好きという気持という炭に、願望と欲望の火を灯し、燃やし尽くしていくのを僕は見た。だが灰の中に埋もれてはいても黒々とした炭の気配がある。 それはいつでも着火可能なもの。 僕は、これに水をかけておかなければならない。 「僕は淳史先輩の気持ちに応えられないです。この教室にいたのも間違いだったのだと思う。本当に、ごめんなさい」 「ああ……」 声にならないため息が肩を落とした先輩から漏れた。 美術教室の中を、赤黒く明度を下げた夕焼けが僕たちの影を長く伸ばしていく。 僕たちは無言で向かいあっていた。 先輩はボールをぶつけたが僕は網目の大きなネットのようなもので、受け止めることができなかった。 「僕こそごめん、勘違いだった。何年も抱えていた気持ちを君に伝えることができて本当によかったよ。これで思い残すことなく学業に専念できる。君が応えてくれないほうが、僕にとってありがたかったんだ。僕を知ってもらう時間を作ってもらっても、駄目なんだろう?」 僕はうなずいた。 僕と先輩の緊張感がほどけていく。 その時、こんこんと扉を叩く音がする。 先輩がぴたりとしめたはずの扉は開け放たれていて、教室の中には扉を背に、後ろ手に扉をたたいた光村漸がいた。 「……お取込み中、申し訳ないのだけど、そろそろ閉めるから教室をでてほしいんだけど」 「え……?あ、すみません、すぐ出ます」 渡瀬淳史は鞄を拾いあげて僕に押し付けた。 鞄の中からガチャリと陶器の鳴る音がする。 「本当にごめんね。鞄の中に割れ物があったのかな。割ってしまったかも」 申し訳なさそうにいう。 「大丈夫です。たいしたものではないので。先輩がんばってください」 最後に僕に泣き笑いのような笑顔を見せて、先輩は光村漸に頭をさげて部屋をでる。 光村はすぐに動けない僕をじっと見つめていた。 「本当になにもなかった?彼は美術部ではないし三年生だっただろう?それに、二人きりになるときは扉を閉めてはだめだ。教師と生徒のときだけではなくて、生徒と生徒のときも駄目だよ。ああ、でもこんなこと藤崎くんが気にすることがなかったのかもしれないけど、最近は事件も多いから気を付けておくに越したことはないから」 「僕は、女子でもないですから」 「今、男子に告白されていた君がいうことなのかな」 僕をすぐに教室から追い出すことをあきらめた光村漸は電気をつけた。 眩しくて瞬きをしているうちに、光村漸は近づいてきた。 光村漸は扉を開けたままだったが、開けていることにあまり意味はない。 なぜなら美術教室は校舎の端。 ここに明確な目的がなければだれも通らない袋小路なのだから。
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