「本当に大丈夫?」
光村は僕の顔を覗き込み、ちょっと待っててといっていったん教室を出た。
近くの自販機でがたんと音がした。戻ってきた時には手にホットココアの缶を持っていて僕に差し出す。
「甘いのは落ち着くから、いいからこれは僕のおごり。他の人には内緒でね」
光村は僕に缶を押し付けた。
「熱いよ、気を付けて」
いうのが遅い。あちちと何度か左右の手でホットココアを転がした。
あははと光村は笑うがその目がふと僕の手首に目をとめた。しばらくとどまり、それで僕は手首の赤いあざを知る。淳史先輩に強く握られた痕だった。
「ここを閉めるのではなかったのですか?」
「教師のいない教室はしめなければいけないけど、僕がいるからまだ大丈夫」
と言いながら僕が座るのを見て、彼も僕の斜め前の椅子を確保した。
教室には画板をおく台はすべて横に寄せられていて、椅子だけが放射状に置かれている。
その中央には空間がありモデルがすわったりポーズをとったり、石膏像を置いたりして一斉にデッサンを行うこともあった。
僕はココアをいただくことにした。
先輩の告白をうけて心がざわざわと落ち着かなかった。光村漸とふたりきりということも落ち着かないが、先輩が出て行ってすぐに帰りたくなかった。
普段はどんなことにも興味がなさそうにみえる光村の静かな視線は、じっと僕の手首を見ている。
不意に僕は観察されていることに気が付いた。
だが、光村が言葉にしたのは別の事。
「鞄のなかから変な音がしたけれど、大丈夫?」
それは僕も気になっていた。鞄をさぐり、ハンカチに包んでいたものを取り出した。
思った通り、湯飲みの形にもう原型はとどめていない。
ほどいてみないまでも、割れてしまったことはわかる。
「これは大丈夫じゃなさそうです。先生に金継ぎをしてもらおうと思って持ってきたんだけど」
光村は苦笑する。
「君ももってきたのか。もうかれこれ20人はいる。どんな風に割れたの?」
僕は開けるのをためらった。
「飲み口が欠けただけだったのですけど、これだともう形になってないです」
「いいから見せてみて」
僕はこんなものをどうするのかと思いながら光村に促されハンカチを解いて膝に広げて見せた。
備前焼きの土色の陶器は、底から割れて三つの大きな断片となり、さらにこまかな破片が散らばっていて、ひとつをつまむとぱらりと剥離した。
光村は机を寄せて覗き込む。
「見事に割れたね。この割れ方だと案外いいかも。もういいよ、そのままハンカチに包んで。欠片をなくさないで」
そういいながら光村もズボンからハンカチを取り出し、二重に包むようにいう。
僕は意味も分からず包むが、出土した土器の破片のようなものをどうしようというのかわからない。
光村はにこりとわらう。
「小さな欠片もなくさずにいたら修復するのにそのまま使える。それがなければ穴埋めの作業が必要となってくるんだ。備前焼きの暗い土色と火にあぶられた赤や黄色や青の色変わりが美しいし、稲妻のよう金の筋が入ると、ほんとうに美しい器になると思うよ」
「それはどういうことですか?ここまでバラバラになってもできるのですか?」
「できるよ。これを金継ぎにすれば、以前よりもぐっと素敵になると思う」
「僕はできません。誰に依頼してもいいかわからないんですけど」
光村漸は呆れたように僕を見た。
「僕がやってあげるよ。僕の専門だから」
「他の人を断っていたじゃないですか」
光村の眼が僕の顔にさぐるように注がれ、ふっと目元が緩んだ。
「そうだった。君も観察者で傍観者だった。みんなの皿やカップは受けられないけれど、こっそりとだったらやってあげてもいい。その代わり」
「その代わり?」
「きみの絵を見たい」
「そんなものでいいのですか?」
「今日の持ってきていたスケッチブックの絵、全部だよ」
では気がかわらないうちにと思い、僕は鞄からスケッチブックを差し出した。
光村漸は口元に笑みを浮かべてじっと見つめてはめくる。
興味深げでどこか感心しているようだった。
僕はその様子をじっと見つめた。
「観察者で傍観者ってなんですか」
先ほどの光村の発言で気になったことをきく。観察者で傍観者といわれたことはなかった。
だが同じようなことを言われたこともあったような気がする。
もっと積極的にみんなと関わった方がいいよ、とか、もっと自分の意見を主張した方がいいよ、とか。
もっと真剣に、とか。もっと喜怒哀楽をださなきゃわからないよ、とかも。
「観察者で傍観者というのは、物づくりや絵やイラストを描く側の人は大抵そうなんだけど。つい、観察してしまう。君が僕の手の動きを書き写したように。見えるところだけでなくて、感情の動きや考えも、観察して想像してしまうことも多いんじゃないかな。そしてその観察したものは、こうした自発的な絵に現れる。こうして古谷さん?もよく登場しているし、三浦くん?も多いね。三浦くん?と藤崎くんとの関係性が絵から読み取れる。藤崎くんはふたりのこと気になってるんだね。おそらく惹かれている。目が離せない。たくさん見て、知って。そして自分の中に納めきれないあふれでたものを君はここに書き留めている」
急に僕は羞恥に真っ赤になった。アヤとカズヤが好きだといわれたのだ。
その通りである。
僕は立ち上がり座る光村に突進するように向かった。さらにスケッチブックの絵をみてめくる光村漸から奪い返そうとする。
僕の突然の狂暴性に驚くが、光村はしっかりつかんで離さない。
その目はスケッチブックから離れない。
それは僕の赤裸々な心の内がそのまま告白されていた。
「なるほど、彼は今は美術部だけど以前はサッカーをしていたんだね。それも大活躍していたようだ。なるほど、君が人に惹かれる要素がわかった。きっとそれは……」
スケッチブックを奪い返すのをあきらめた。僕は片膝を光村の椅子に乗せ、その肩に両手を置いて体重をかけた。驚いて引こうとするその顔を追いかけて顔を押し付けた。口で光村漸のなおも何かいいかけた唇を塞ぐ。
昨日、カズヤが僕の口をふさぎたくなった理由がわかった。
自分のことを観察され分析されるのに耐えられないのだ。
それも自分が把握していない自分のことを。
カズヤが僕にしたことを思い出し、再現する。唇を押し当て己の舌でわずかに開いた唇をこじ開け侵入する。温かな舌にふれれば絡めるのだ。
光村は抵抗をあきらめた。僕が息が続かなくなるまで待った。
呼吸の仕方を僕は忘れてしまっていた。所詮僕は付け焼刃のえせカズヤだ。
「僕を誘惑するつもり?」
「そのつもり。先生、嫌なら抵抗してください」
「嫌じゃないけど、藤崎くんは僕には足りない」
足りないといわれてむっとする。先ほど男から蠱惑的な目だといわれ好きだと告白されたばかりなのだ。
自分が足りないとは思えない。
ふっと光村の目元に笑みが浮かぶ。つかみどころのない余裕の笑みだった。
ばさりとスケッチブックが床に落ちた音。
光村漸の手はスケッチブックの代わりに僕の腰を捕らえている。
引き寄せられ、頭の後ろに手が回された。光村の足の上に跨ぐ形で座っていた。
今度は光村漸からのキスだった。