カズヤの家は同じ町内にある。
北野神社の東側にある上七軒の中にある古い旅館を組みは変わらず耐震を兼ねて踊りやお茶の稽古ができるように改築した稽古場と居住をかねたものである。
カズヤの父は創業百年は続くちりめんサンショの老舗の三浦屋の社長で、この邸宅は芸妓であった母に与えたものだった。
カズヤの父親は若い妻と腹違いの弟と本宅に住む。
その複雑な関係性を僕は母や友人たちとのうわさ話から自然と知ることになった。
それは有名で、カズヤの顔立ちの良さは母親譲りのもので、女子と付き合う数の多さは父親譲りとそしられていた。僕は家族のことを交えて本人を非難するのはおかしいと思っているので、その噂ばなしに加わったことはなかった。
トシとヒロは途中で分かれ、帰り道はカズヤと二人になる。
市バスにのってもいいが、細い脇道に入ってぶらぶら歩いて帰るのが僕たちの帰宅路である。
梅雨前の今の時期、平日でも観光客とすれ違う。老舗の粟餅の店とおしゃれなカフェが混ざり合う。
着物姿が板につくこの町に根を下ろし養分を吸い上げる女たちと、季節外れの花の着物にド派手な帯結びで外向きの足先で大股に歩くレンタル着物の観光客がすれ違う。
「なあ、今日のアレ、検証しようぜ?」
「あれって?」
「ハルのイロジカケ?あれが色仕掛けといえる代物だったらなんだけどな」
「いいよ、もう」
「いいから来いよ」
カズヤは三味線と鼓の音に女の気配がざわつく家に帰りたくないのだと僕は察した。
今夜はカズヤは塾のない日だった。
カズヤの家は北野神社のすぐそばだった。そこに行くまでに僕の家はある。
僕は鞄を置いてすぐに家を出る。手持無沙汰にスマホを手にしていたカズヤの顔が僕をみて緩んだ。
カズヤの家には勝手口から入る。表には見事な生け花に師範免除の看板がかかる、来客用のよそ行きの玄関には牛革の草履が並んでいるから普段から裏口から上がる。それでもカズヤ二階の部屋は、踊りの稽古や三味線の稽古にきている奥様方や若い見習いの娘たちがいて、僕はカズヤの後ろでじろじろと眺められる居心地の悪さに耐えなければならない。粉っぽい化粧と着物の匂い袋の匂い。
調子の外れた三味線が途切れなく続いている。
カズヤの部屋は他の和室とは違って洋室にベット、勉強机、壁には本棚が一面に備え付けられ、天井には金髪の毛を逆立てた欧州サッカーリーグのスター選手のポスターが貼られている。
以前来た時にあったJリーグの選手のサインの入ったサッカーボールはこの部屋にはなかった。
鞄を机の横に置くと、どっかとベッドに体を投げ出した。
「ほんと臭いな、この家」
「そんなことないよ。いい匂いだよ」
「ざけんな。カビの生えた女の匂いは嫌いだ」
「嗅ぎすぎたんじゃない?なんでも過ぎればなんでもないものも嫌になるというし」
カズヤは僕がベッドに腰を下ろすのを目を細めてみていた。
「ほら、手をかせ」
寝たまま僕のほうに手を伸ばして指を広げる。意味が分からない。
「検証するんだよ。俺の手を取れよ」
「ああ……」
いわれてようやく察する。今日の目的はそれだった。
僕は手を掴んでカズヤをベッドから引き起こし、僕の隣に座らせた。
「せっかく寛いでいるのに起こされる必要があるのかよ」
「いいから」
僕はカズヤの手を自分の手のひらに重ねる。日に焼けた肌だった。爪が短い。人前では見せることはないが、カズヤの手をみれば爪を噛む癖があるのがわかる。
「悩み事があるの?」
「ない」
速攻の返事に僕は笑う。
「何している?これが光村漸にしたことと同じことなのかよ?」
カズヤは苛ついた。僕は構わない。そういう彼の態度には慣れている。
カズヤの苛つきが僕に向かうことはほとんどなかったが。
「同じことだよ。僕は光村の手を描いていた。描くには観察しなきゃ描けない。追いかけて、追いかけて、眼の奥に対象物の残像を刻み付ける。目をつむってもありありと思い浮かぶときに、僕はキャンパスに向かうんだ。カズヤの手は二つの矛盾が存在するよ」
「なんだそれ」
カズヤの苛立ちは好奇心に置き換わっていく。
ぼくはカズヤの手を返し手のひらを上に向けた。光村漸の時と違って僅かな抵抗もなく手のひらが僕の手に収まった。
手の平は固く、丸まる指をひろげると大きい。光村漸よりも大きかった。
カズヤのポジションはなんでもできたが、彼はゴールキーパーだった。
「真剣にスポーツする人の手なのに、指にはペンだこがあり、勉強もする」
「サッカーは辞めたし、勉強は内部進学とはいえ法学部に入れといわれている。法学部は成績上位者しかはいれないからな、そんなことハルも知ってるだろ」
カズヤは鼻でわらった。ぼくは構わず続ける。
絵を本物にするには対象をじっくりと観察すること、想像することだと、女子に囲まれながらも光村は最後に必死で訴えていたのだった。
「不自由ない生活に満足しなければならないと思う反面、自分の人生を生きていない苦しさを感じている。不満を感じてはならないと思えば思うほど、やるせなさを感じてしまう」
指と指の間に指を差し入れ、握り込んだ。目を閉じてカズヤの指と手のひらの弾力、温かさに集中する。
手の平から熱の一気に僕に向かってくる。指も手の平の筋肉も弾力があり、力強さを感じた。
感じることに集中する。
「カズヤは強い。僕が漠然と描いている将来のような、机に座り続ける仕事はまったく向かないだろう。
身体能力を極限まで高め、己を試し、限界を超えるような戦いでこそ己が生きていることを実感するような男。もちろん京都の老舗のちりめんサンショの煤けた箱の中にはおさまりきれないし、本人もうすうすそのことに気が付いている。窮屈でちっちゃな世界だって。だから、悩んでいる。飛び立ちたくてうずうずしている。本当は、ここにとどまり望まれる道を歩むのがいちばんだれも不幸にしない道だとわかっている。だけど、その場合不幸になるのは……」
「おい、黙れよ」
底冷えするような声に僕は遮られた。握っていたのは自分だったはずが、強く握りこまれていた。
ぎりっとした痛みに驚いて目を開くと、前腕の筋肉の盛り上がりが目に飛び込んでくる。そして、はだけたシャツから素肌。僕は肩を押された。平衡感覚を失いカズヤの背後が星座の動きを線であらわしたもののように大きく流れた。
背中にやわらかい衝撃。あっと声と息が吐き出された。
ベッドに押し倒されたのだった。
ベッドに膝をつくカズヤの重みで体が沈む。
女を夢中にさせる野性的な体がののしかかる。体から発せられた、手の平の熱よりも比べられないほどの熱量が僕に向かってくる。圧倒されて声がでない。押し戻そうと思うが右手は固く握られた状態で顔の横にベッドに押し付けられていた。
左手で咄嗟に押し戻そうとするがカズヤの身体に触れる前に手首ごとベッドに押し付けられる。
何をするのかと思った時には熱くて柔らかい唇が押し付けられ、強引に歯の間に熱くてうねる舌が強引に割り込んでくる。僕の吐いた息をカズヤは全て吸い込んだ。そしてカズヤの吐く息が僕の呼吸の全て。
しびれるような感覚が背中に走った。
何が起こっているか理解できず、カズヤに強引にキスされているとわかるには時間が必要だった。
ようやく解放される。はあっと僕とカズヤのため息が重なった。
心臓が耳の奥でどくどくと打っている。外れた調子の三味線の音はもう聞こえない。
初めてのキスと身体に感じる他人の重みが僕を興奮させている。
男相手にも興奮するなんて、知らなかった。
男同士でキスができてしびれるほど気持ちがい良いというのも衝撃だった。
「合格。俺が口を塞ぎたいと思ったから、ハルのイロジカケは成功」
それはイロジカケではないのではないかと反論しようにも、声の発し方を僕の身体は忘れてしまった。
カズヤの目は見たことないような目をしていた。余分な力が全て抜け落ち甘く蕩けていた。
その目から目が離せない。恋人を見るように、カズヤは僕を見ていた。
キスするまでに彼から感じた震えるような苛つきは、どこかへ蒸発していた。
彼から押し込まれた熱と唾液ごと、僕が飲み下したのかもしれない。
「お前の目を魅惑的だといっている先輩の例もあるし、ハルはかなり才能あるよ」
「き、キスした」
カズヤは乱れた前髪をかき上げる。そんな仕草がセクシーというのだろう。
「慣れておく方がいいだろ。光村漸との問題写真を撮るんだ。写真は、光村とのキスシーンでいいだろ。それとも、嫌だったか?女たちは俺のキスで喜んだけど男のハルはどうだ?嫌だったか?」
「そんなこと、わからない。どけよ」
女とキスしたことないから比べられないとは言えなかった。
どこか残念そうにカズヤは握る手を解き、僕を解放する。
解放されても僕はベッドから動けない。カズヤは改めて手を差し出して僕を引き起こした。
「ご飯を食べて帰る?お手伝いさんが用意してくれている。それとももう少しここで、どこまで俺とできるか試してみる?」
カズヤの視線はじっと僕の口元に注がれていた。