光村漸は僕たちの中の危うい均衡をかき乱していく。
本人が望むとも望まないともかかわらず、特別なヤツは存在するだけで周囲をひきつける重力が発生すると同時に、反発も生んだりするのだ。
光村漸を囲んで盛り上がる女子たちの中に、カズヤやトシやヒロが密かに目を付けていた女子がいた。
誰にも言っていなかったけれど、僕だって教室に入った時にさりげなく探したり、体育の授業で目の端に必ず捕らえておきたい女子がいた。
僕の気になる女子はサヤ。長い髪をポニーテールにしたり、下ろしたり。
彼女はカズヤやトシやヒロのそれぞれのお気に入りの女子たちと一緒に、「光村先生、先生」と呼びかけて群がっていた。
午睡を奪い、僕たちの心の彼女の関心も奪った存在を、このまま野放図にしておけるものではない。
「何だよ、女子たち。根暗な光村のどこがいいんだか」
目当ての彼女の様子に鼻白む男子生徒は、女子の好意が盛り上がるのと比例し敵意を剥き出しにしている。
例の、重力と反発力の法則だ。
女子たちは廊下で光村を追いかけ、職員室の外で待ち伏せした。
中には帰宅しようと車に乗り込むところまで付いていく、積極的を通りこしてストーカーだといわれかねない女子もいる。
「ちょっと、これはなんかあるんじゃあねえ?」
光村の教育実習の四日目には、カズヤやトシやヒロは女子たちの行動に何か危険なものを嗅ぎ取っていた。
たとえば、群がる女子の一人と、もしくは複数と、光村が学校外で好ましくない関係になって、府の教育委員会や学校のPTAを巻き込んで世間を大きく騒がせるとか。
僕たちはあんなにもてる男ならば手をだすだろうと勝手に見当付けた。
そう思ったのは、僕こそが、ポニーテールのサヤと楽しくおしゃべりしたり手をつないだりキスしたり髪に触れたり。それ以上の関係に進んだりしたかったからなのだが。
問題を起せと僕たちが期待するのを尻目に、光村漸はぼろを出さない。
女子と適切に距離をとり適切に指導した。
誰一人抜け駆けすることができないようだった。
「なあ、あいつ、もしかしてあっちの方なんじゃないかよ?」
そう言ったのはカズヤ。トシやヒロは顔を見合わせる。
僕もそう思っていたところだった。
「なんなら、揺さぶってみる?俺たちで暴いてやろうぜ?」
それは思い付きだった。
退屈な学生生活に新たな方向性を得た。
僕たちはそのタイミングをおしはかる。
午後の時間。
かつての僕の安住の地であった美術教室で、相変わらず真新しいキャンパスにB5の鉛筆を走らせる。
にわか画家志望も本来の美術部員も一緒になり、多過ぎて酸素が薄くなっているんじゃないかと思える教室で、みんなそれぞれ好き勝手なことをしていた。
石膏像を模写したり絵を描く友人を模写したり。
履き古したスニーカーを机に載せて水彩画にしたり、キュウイを輪切りにしてアクリルポスターを作っていたり。
僕のこのところ惹かれるテーマは手である。
光村漸は指導するとき、その手は雄弁に語っている。
遠目からみても節ばって見える手は、時には大きく翻り、時には繊細で細かな動きをする。
ピアノかなにか、楽器を弾く手だと思う。
その手が光村の静かな言葉以上に、抑揚をもって鮮やかに動く。 物を生み出す造形家の手だと思った。
粘土をこねてもノミをふるっても似合いそうだった。
何かを形にして命を吹き込む手を、光村漸はもっていた。
僕に今よりももう少しやる気や情熱があれば、そんな手が欲しいと思える手だった。
聞き耳をたてながら、僕は光村の手を盗み見ては描き写す。
光村漸の手を追いかけた。
「……君は、一番上手だね。今まで賞とかとったことあるんじゃない?名前はなんていったかなあ」集中していた僕は仰天した。
僕の観察対象は、背後から僕のデッサンをのぞき込む形になっていた。
光村漸の息が耳に触れる。
キャンパスいっぱいに、様々な表情の手が描かれていた。
背後から、モデルのその手がにゅっと伸ばされ、同じ形を取ろうとする。
一瞬を捕らえた手の動きは、本人が意識して作ろうしても案外難しいようである。
さらに背後から顔を突き出して僕の名札を見た。
「藤崎くん?なるほど上手だね。でも、残念ながらそれだけだね。きれいに描けているけど、質感や重さも感じられないのが残念だね。何をしている手なの?何を語っているの?君はきれいに写すだけで満足しているの?」
光村漸は生徒にたいしては褒めることしかしなかったはずだった。 それなのに、僕は酷評されていた。
僕は固まった。なぜなら、言われてみればその通りだと思ったからだ。 美術教室のざわめきが僕から遠ざかる。
「藤崎くんは、一年の時に全国の美術大会の選考作品に選ばれたこともあって……」
すぐ近くにいたおせっかいな女子が説明をしていた。
顔に血が上る。手にした鉛筆の先の震えを止められない。
光村漸も気が付いた。
ごめん、言い過ぎた。本当に良くできているよ。今度は意味を考えながら描いてごらん、とかなんとか。言い放った先ほどの言葉の強さをごまかそうとする。光村漸はなおも口の中で謝りながら身体を引こうとする。
撤退する手を僕は捕まえた。
彼の手は意外なほどざらりとしていて乾いていた。
B5の鉛筆が音を立てて転がっていく。
派手に落として芯が折れてしまったことも構わない。
「この手はあんたの手。質感も重さも知らないものは描けないんだ。僕の絵を本物にするにはどうすればいいのか、先生、教えて欲しいんだけど?」
視界の端で、成り行きを見守っていたカズヤの口が動く。
ヤツを落とせ!
僕もそのつもりだ。
光村は僕に手をつかまれたまま、僕の顔を初めて見るように見つめた。